エルンスト・プッチェル作品

プッチェル来鹿

 1928年(昭和3年)4月、第七高等学校造士館ドイツ語教師として、鹿児島へ赴任したエルンスト・プッチェル ── 年齢32歳、ドイツでの前歴はカペルマイスターの称号を持つ教会オルガニスト、作曲家。祖父の時代から続いた教会音楽家一族。それが何故日本へ、鹿児島へ? その疑問を解くためには、わが国とドイツの交流を明治時代から遡らねばならない。更に古くは長崎出島商館のシーボルト以来という事になろうが、明治の日本政府は、多くのドイツ人を“御雇外国人”として招聘、優遇した。明治、大正、昭和(初期)の三代に亘ってわが国の学問、そして芸術(とりわけ音楽)は、ドイツ一辺倒だったと言える。科学のワグネル、医学のベルツ、歴史学のリース、そして哲学のケーベル博士。

ケーベル博士

 わが国の学徒を育てた彼らドイツ人の業績は大きい。中でもドイツ系ロシア人ケーベル博士は、我が国の教養人の祖となった。東京帝国大学の文科生徒に“一番尊敬する教授は?”と尋ねると、100人中90人は、日本人教授をさておいて、“フォン・ケーベル”と答えるだろうという夏目漱石の有名な言葉(漱石全集)が示す様に、ケーベル博士の人望は厚かった。彼は元はモスクワ音楽院ピアノ科出身の音楽家だったが、ドイツへ赴き、生涯の道を学問研究に向けた。しかし、日本へ来るや、そのピアノの腕も買われ、帝国大学教授と東京音楽学校のピアノ科教授を兼務したという。当時の音楽批評によると、“ケーベル程ピアノの達者なピアニストは日本に存在しない”とある。そんなケーベル博士に強く影響を受けた学徒の一人が、後に第七高等学校ドイツ語教授となった石倉小三郎氏だった。

石倉小三郎 <流浪の民>

 石倉小三郎といえば、シューマンの<流浪の民>の名訳者として知られるが、帝国大学の独文科学生と音楽学校の聴講生を兼ねながら、ワグネル会を創設、<オルフェオ>の初演訳、ドイツ・リートの訳等、ケーベルと共に日本に於ける西洋音楽の曙に寄与したのである。石倉は卒業後、東京音楽学校講師を経て、第四、第八、そして、大正七年に第七高等学校へやって来た。実はその石倉氏がプッチェルを鹿児島へ呼んだとされるのである。石倉は恐らくプッチェルに地方版ケーベルを夢見たのであろう。
 第一次世界大戦に破れたドイツ、その後の厳しい社会情勢 ── ナチス・ドイツ ── の中で、ヒトラーの圧制から逃れる様に日本へ。彼プッチェルが望んだのは、ドイツ人の先人達の活躍する憧れの日本での音楽活動(当初、石倉の目算は東京音楽学校外国人教師であったという逸話もあるが…)だった。

七高生

 白線2本の学生帽に黒マント、朴歯の高下駄というカッコいいバンカラ・スタイルの秀才七高生達にとって、プッチェルは発音にうるさい熱心なドイツ語教師であると共に、西洋音楽の香りを惜しみなく与えてくれる文化人となっていた。
 七高生音楽部の良き指導者、鹿児島最高のピアニストとしての活躍がここに始まる。近年、プッチェル氏のピアノのお弟子さんだった若原晴子女史が、当時を知る方々に募って編まれたプッチェル氏の思い出集の中で、去年逝去された鹿児島の音楽界の草分け武田恵喜秀先生は、“プッチェル先生は私の音楽心をかき立てて下さった。あの頃あれだけのピアノ演奏の出来る人はいなかった。”とプッチェルの演奏する<月光の曲>の思い出を書き綴っておられる。

七高音楽部

 七高では既に大正初期から、学内講堂において音楽会を開いていたが、有志が集まって大正15年に正式にクラブとして成立、18のクラブ活動の中の13番目に位置する音楽部であった。彼らは学内での発表に留まらず、会場を公会堂(現在の中央公民館)に移し、昭和19年に至る迄、広く市民にむけて音楽会を始めた。数少ない当時の記録から、その内容は大変立派なものである。日本における洋楽100年史』(第一法規刊行)に見る東京の音楽会にしても、それ程数があるものでも無く、その内容もピアノの名曲、ベートーヴェンのシンフォニーといった類であるが、地方のこの町で当時では耳新しい作品が演奏されていた ── 素晴らしい事ではないか! ほぼ20年間ではあったが、その間、石倉小三郎訳、プッチェル指揮でシューマンの<流浪の民>が歌われ、プッチェルがバッハ=リストの<幻想曲>を弾き、生物学の山根銀五郎教授がシューベルトのリートを歌い、学生達がそれぞれピアノ、マンドリン、ギターと合奏やソロに活躍する等々 ── その生き生きした様が伝わってくる写真やプログラム。戦線が激しくなるに連れ、音楽会の主旨は<出征兵士と遺家族慰問>と副題が付き、演奏の一部に<海ゆかば>etc.といった時世の反映が見られるが・・・・・・・・・・。紺と白と淡いブルーの三色に染め分けられ7を重ねたZのマークにMUSIC THE SEVENTH HIGH SCHOOLと書かれた音楽部のフラッグを背に並ぶ彼らのステージ姿 ── その中心に居るのは何時もプッチェル氏とその妻だった。

プッチェル夫人

 夫人クロティルデ・プッチェルはギリシャ哲学専攻の学者で、後にドイツ青少年向けに西郷南洲翁の逸話を執筆したり、西郷伝のドイツ語訳をしたりと、愛する鹿児島をドイツに紹介する事に尽力された今でいう薩摩親善大使といったところであるが、良き家庭人であり、巧みにヴァイオリンを弾き、夫の最良の理解者、協力者だった。七高音楽会のラストステージを飾るのは、紅一点出演の夫人のヴァイオリン演奏(夫妻)の合奏だったという。プッチェル氏がヴァイオリン曲を好んで書いたのも夫人ゆえであったろうし、夫人も又夫の作品のために沢山の詩を書いている。夫妻にはメディー(メリー)という一人娘がいた。敬愛幼稚園、女子師範付属小学校へ通い、鹿児島弁を喋り、鹿児島生活を満喫し、ドイツでの教育を受けさせられるべく、単身ドイツへ帰されたという。

プッチェルの住居

 プッチェル氏の住居は、下荒田の宿舎だった。騎射場から県体育館の方向へ向かって、2~3筋目を左に折れたあたり ── 現在の鹿大外国人宿舎の場所。造士館一覧(学校要覧)によると、木造2階建て、26坪6勺の2軒の外国人宿舎が造士館の財産として記載されている。戦災で消失したが、その建物は<赤いとんがり屋根のモダンな洋館>だったという。こうした事にも当時の外国人教師への配慮、優遇が窺える。戦前は、国道225号から向こうは海岸だったそうで、彼らの家から、松林、錦江湾、桜島が一望に見える鹿児島の絶景地だったようだ。そうした景色が作品の中に歌われているのが読みとれよう。

子供のためのピアノ曲

 七高音楽部を指導する傍ら、家では数人の子供達にピアノのレッスンをしていた。当時、我が国で得られるピアノ教則本の数は極めて少なく、プッチェル氏は子供が具体的イメージを以って弾く事が出来るようにと、表題を付した平易な子供のための楽曲を作曲し、中央楽壇でこれを出版している。第一冊は昭和5年、<ピアノ小曲20曲集>。その中で石倉小三郎氏は<序に代へて>という事でそうした出版の主旨を綴っている。“鹿児島にて”というサインが妙に嬉しい。更に昭和11年、<ピアノ曲集>Op.85がそれに続く。いずれも、東京の共益商社書店(唯一の楽譜出版者)出版。巻末にある当時の楽譜紹介を見ると、極めて出版数が少なく、プッチェル作<荒城の月変奏曲>、<桜さくら変奏曲>等々、プッチェルの文字が目立っている。いずれも一円とか、七十銭といった時代のことである。

三越オルガン

 昭和5年、東京三越デパートに我が国最大のオルガンが設置された折、プッチェル氏は弾き初めに招かれ演奏したという。オルガンの事、東京の物資の豊かさ等を、七高生達に語ったと当時の逸話に残されている。そもそもこのオルガン、三越の重役の一人がアメリカ旅行でその響きに感動し、購入の約束を交わして帰国。高価な買い物に大目玉をくらったとは、その子孫から聴いた話。しかし、珍しさと荘厳な響きが客を集め、<オルガンの三越>として有名になったそうである。三越関係者の語り伝えによると、当時それを本格的に弾ける人を探すのも至難の技だったという。成る程鹿児島迄、お呼びが掛かる筈である。

荒城の月

 最初にプッチェルが魅せられた日本の音楽作品は、滝 連太郎の<荒城の月>だったらしい。彼は“ブラームスの未発見の曲に違いない”と歓喜したそうであるが、そう言われてみれば、ブラームス風ドイツ風かもしれない。しかもよくよく考えれば、<荒城の月>って、ベートーヴェンの<月光の曲>和音進行曲と全く同じではないか。“成程!”と妙に感心する所であるが、彼はこの<荒城の月>と<桜さくら>の旋律がいたく気に入ったようである。

日本音階

 鹿児島の生活に慣れ、日本の文化に触れる中で、プッチェル氏にとって一番のカルチャーショックは、音の世界 日本音楽の響きだった。西洋音楽とは異なる日本音階に魅せられた氏は、歌の旋律にピアノの鍵盤に日本音階を写していった。その作品から、“瞬く間に良くもこれ程に!”と音へのアンテナに驚かされる。

一中校歌

 今日の鹿児島の人々に最も知られているプッチェル氏の作品といえば、旧制一中(鶴丸高校の前身)の校歌であろう。当時の難しい日本語の歌詞を石倉小三郎教授が苦心してドイツ語訳し、その内容をプッチェルに伝え、共作で出来上がったという。又、昭和9年、石倉が高知高等学校長として、七高を去ってから後も石倉とプッチェルとの交流は続き、プッチェルは高知高等学校開校十周年記念歌を作曲している。

ドイツ帰国

 17年の間にすっかり鹿児島に溶け込み、鹿児島人となったプッチェル氏とその妻ではあったが、彼らの平穏な生活は第二次世界大戦の敗戦によって、無残に打ち砕かれてしまう。昭和20年8月、我が国より先に降伏したドイツ人は軽井沢へ強制収容され、戦後アメリカの手によって無一文でドイツへ帰されたという。造士館も戦災にあったが、戦後すぐに出水に移って学校が再開される。敗戦という悲惨な現実の中で、七高音楽部は、昭和21年6月と7月に出水、水俣の女学校講堂に於いて復興記念講演の音楽会を行っている。過去のこうした記録に出会う時、彼らの活力に感動を禁じ得ない。プッチェル夫妻の後を引き継いで山根銀五郎夫妻が共演されたそのプログラムは、戦前と比べて自由と希望に満ちあふれた新しい時代の到来を物語っている。

晩年

 前出若原女史の冊子の中のプッチェル夫人からの手紙によると、帰国後10年を経て、プッチェル氏は日本官吏となり、フランクフルト近郊の静かな町で鹿児島を思いながら、草花を日本風に生け余生を送られたの事。ドイツの恩師を訪ねたが、かつての七高生(鹿大名誉教授故大田稔氏)によると、桜島の写真と、西郷南洲翁の漢詩を掲げ、人生の一番幸せだった鹿児島時代を偲びながら、1962年(昭和37年)5月、糖尿病に急性盲腸炎を併発し、66才で他界されたという。

作品鹿大図書館へ

 鹿児島時代、又その後作曲された130曲に及ぶ作品は第二の故郷鹿児島へという氏の遺言に従って、昭和40年鹿児島大学中央図書館へ、演奏権、版権と共に寄贈された。夫の死後、ヴュルツブルグ大学でラテン語と日本語を教えていた夫人は夫の遺言を果たすと間もなく昭和41年逝去されたという。昭和53年その一部、ピアノ曲が、全音楽譜出版者から出版されたが、現在は絶版になっている。寄贈された楽譜は、写譜家によって清書されたもののようであり、プッチェル氏の自筆譜は2~3曲しかない。この事が今回の演奏者としての、我々を悩ます事となった。誤植、誤写と思われる部分に、最小限の手を入れ、又、パート譜だけでスコアーの無い楽譜から、演奏用スコアーを起こすといった、演奏以前の問題が山積みであった。どんなに走り書きでも読みにくくとも、自筆楽譜こそが、最高の遺産なのだが・・・・・。

田中 京子(鹿児島大学教育学部教授)